水蓮花を摘んで (一)
その日の帰り、下駄箱のところで、小鉄と狭霧は鉢合わせをした。
「あ・・・」
互いの顔を見ると、ぎこちない沈黙が訪れた。
狭霧が赤目の瀧上高校から東京に戻り、千代田の三葉に再び通うようになってから一か月以上経っていた。当然、校内で偶然一緒になる機会もそれまでにも何度かあったが、未だに二人の間には、どことなくぎくしゃくとした感じが消えなかった。この時もいつもと同じように気まずい空気が流れかけた。
「・・・今、帰りか?」
「う、うん」
小鉄が話しかけると、狭霧は短く返事をした。だが、それ以上、会話が続かず再び沈黙が下りた。
「・・・じゃ、じゃあな」
狭霧はそう言って背を向けかけた。これまでなら、そこで狭霧とは別れるのが常だったが、その時の小鉄は、そのまま狭霧をあっさり行かせてしまう気持ちになれなかった。
「狭霧」
小鉄に呼び止められて、狭霧は足を止めた。振り返った狭霧に、小鉄は遠慮がちに口を開いた。
「・・・良かったら、途中まで一緒に帰らないか?」
断られるかな、と思いながら小鉄はそう誘ってみた。狭霧はちょっと驚いたように小鉄を見返したが、すぐに視線を落とし、
「・・・別に。いいけど」
小鉄のほうを見ないで、そう答えた。
先に歩き出した狭霧に、校舎を出たところで小鉄は追いついた。自分の隣に並んで歩く小鉄に狭霧は聞いた。
「雪也と松平は?今日は一緒じゃないのか?」
「お二人とも先に帰られた。俺はちょっと職員室に用事があったから」
「ふうん」
雪也と貴子姫の名前が出たことで、小鉄はふと思いついた。
「そういえば、貴子姫がお茶を淹れてくださるそうだ。お前も来ないか?きっとお二人とも喜ばれるだろう」
「松平んちにか?」
小鉄が頷くと、狭霧はちょっとの間考える様子だった。
「・・・んー、せっかくだけど、やめとくわ。俺、帰ると晩メシの支度があるし。遅くなっちゃうもん」
狭霧は東京に戻ってきたとき、以前と同じように坂口の家にハウスキーパーとして雇われる形で住み込みさせてもらっていた。甲賀の里から正式に許しを得て三葉に復帰した以上、本来なら働く必要のない狭霧だったが、以前同様坂口の家で家事をこなすことに異存はないようだった。それだけ、坂口との暮らしが狭霧にとっては大切なのかもしれなかった。
軽い気持ちで言ってみただけだったので、小鉄もそれ以上重ねて誘うことはしなかった。
しばらく歩くと、商店街に入った。右手に花屋があり、季節らしく様々な色合いの薔薇が華やかに店先を彩っていた。そのうちの一つ、可愛らしい淡いピンク色の薔薇が小鉄の眼に止まった。
「狭霧、ちょっと待っててくれないか?」
「いいけど。花か?」
「ああ、貴子姫に薔薇を差し上げようと思って」
「薔薇?松平なら自分ん家の庭で育ててんじゃないのか」
「そうなんだが、一等お気に入りのこのブライダルピンクが今年は病気で駄目になってしまったと落胆されていたから」
狭霧をその場に残し、小鉄は店員に花束を頼むため店に入っていった。しばらく経って、清楚な色合いのピンクの薔薇の花束を手に小鉄が戻ると、狭霧は店先に置いてある水盤の前でしゃがみこんでいた。
「狭霧。待たせたな」
小鉄が声を掛けると、狭霧はしゃがみこんだ姿勢のまま振り返った。狭霧が見ていた水盤には、小鉄が貴子姫のために買ったブライダルピンクという薔薇より少し濃い目のピンク色の水蓮の花が一輪だけ咲きかけになっていた。
「その水蓮がどうかしたのか?」
小鉄が聞くと、狭霧は少し決まりが悪そうな表情を浮かべた。それから水蓮に眼を戻し、
「いや、ちょっと昔を思い出して・・・覚えてるか?子供の頃、里の近くにあった廃寺の池にこんな水蓮がいっぱい咲いてたよな」
「ああ、そんな池があったな・・・」
そう答えながら、小鉄は内心驚いていた。実を言えば、あの池とそこであったささやかな出来事を小鉄は忘れたことは一度もなかった。だが、狭霧も覚えているとは夢にも思わなかった。
あれはいつのことだったか・・・もう10年以上も昔のことだ。遠い子供の頃の記憶が鮮やかに蘇ってくるのを小鉄は感じた。
「狭霧!」
鬱蒼と生い茂った木々の間に、澄んだ声が響いた。獣道以外、道らしき道もない深い山の中、重なりあった幹と幹の間の一つから、一人の子供が姿を現した。
袖なしの丈の短い着物から伸びた長い腕や脚は如何にも健やかそうで、肘から下に手甲、膝から下は晒し布を巻いた格好だった。一見したところ、少女のようにも見える顔だちで、濡れたような切れ長の黒い瞳と、肩のあたりまでの長さの艶やかな黒髪が印象的だった。まだ5歳だが、聡明そうな表情と発育の良い体つきのため、もう少し上の年齢にも見えた。
その子供― 小鉄は、左右を見ながら器用に木々の間を通り抜けて探している相手の名前を呼んだ。幾度か呼んでも応えがなく、探す方向を間違えたのだろうかと小鉄が思い始めたところ、一羽の小鳥が耳の横を掠めて前方へ飛び去っていった。自然にその姿を追った視線の先に小さな草地があり、山間にあって僅かに視界が開けた場所になっていた。その草地の真ん中に立っている楠の木に向かってその鳥は羽ばたいていった。
― あそこか。
楠の枝の地面に近いほう、葉の生い茂った一角に、何羽もの鳥が群れ集まっていた。先ほどの鳥も仲間たちに呼ばれたのに違いなかった。
小鉄は草地に足を踏み入れ、楠の木の根元までやってくると上を見上げた。太い枝の一つから、子供の小さな両足がぶら下がっているのが見えた。
小鉄は取りつく枝に狙いを定めると、一瞬の跳躍の後、枝を掴んでくるりと一回転した。そして忽ちのうちに、木の上の子供の隣に腰かけていた。
「狭霧。探したぞ」
小鉄の探していた相手― 狭霧は、先ほど見た鳥たちに囲まれるようにして木の上にいた。狭霧はそのうちの一羽を腕に止まらせていたが、小鉄の顔を見ると、鳥に何事かを囁いた。その鳥が狭霧の腕から飛び立っていくと、それを合図にしたかのように、他の鳥たちも一斉に飛び去った。
「・・・探してたって?」
遠ざかっていく鳥たちを見送りながら、狭霧は言った。そう言う狭霧の頬に小さな擦り傷ができているのに小鉄は気が付いた。よく見ると、か細い手足のあちこちに小さな傷があるのが分かった。
狭霧も小鉄も、甲賀の忍びの血を引く家系に生まれた。物心ついたころには忍びとしての修行が始まり、成長するとともに、その厳しさは増していった。そして、その修行は狭霧にとってより過酷なものとなっていた。
無理もない、と小鉄は思った。狭霧は小鉄より2か月ほど後に生まれただけで小鉄と同い年だが、見た目はずっと下に見えた。背も小鉄より頭一つ分ほど低かった。同じ子供である小鉄の眼から見てさえ、忍びの修行の厳しさに耐えるには、痛々しいほどの幼さだった。
最近では、二人の教育係である長老からの叱責も狭霧のほうに集中することが多くなっていた。先ほどまでの鍛錬の時間にも、やはり、狭霧は長老からこっぴどく叱られていた。
そして、鍛錬の後のわずかな自由時間に、姿が見えなくなった狭霧を探して小鉄はここまで来たのだった。
見た目は幼い狭霧だが、中身までそうという訳ではない。身体が小さい分、忍びの修行の主要な部分である肉体的な鍛錬にはどうしてもハンディがある狭霧だったが、忍びとして必要な知識や教養を養うために長老が行う講義では、小鉄に後れを取ることは全くなかった。むしろ、知識の吸収の速さや講義の意味内容を把握する能力の高さに、小鉄は度々感嘆を覚えた。
そんな狭霧だけに、周囲の期待を幼いながら敏感に感じ取っていたのかもしれない。小鉄と同じ甲賀の忍びの血を引いていても、狭霧のそれは特別なものだった。「長」という言葉をいつから耳にしただろう。小鉄と狭霧が暮らす甲賀の隠れ里にあって、その「長」という言葉で呼ばれる人物の存在は絶対的なものだった。そして、その「長」である人物は、紛れもなく狭霧の父親であり、狭霧自身も、将来その「長」になることが生まれた時から運命づけられていた。
以前なら、どんな時も小鉄の側を離れることはなかった狭霧だが、最近では、急に一人でどこかへ姿を消すことが多くなっていた。狭霧から屈託のない笑顔が減り、幼い顔に似合わない沈んだ表情がしばしば浮かぶようになったことに、小鉄は密かに心を痛めていた。
このときの狭霧の顔に浮かんでいたのもそのような憂いを含んだ表情だった。
自分のほうに顔を向けようとしない狭霧を伺うように見ながら、小鉄は懐から包みを取り出して言った。
「母上がおやつをこしらえたんだ。狭霧の分だって」
その言葉を聞いた途端、狭霧は小鉄のほうを振り向いた。鍛錬のあとでお腹が空いていたのだろう、差し出されたおやつの鬼饅頭を見て目を輝かせた。早速、鬼饅頭を手にとって頬張った。
美味しそうに食べる様子を見守りながら、狭霧に笑顔が戻ったことに小鉄はほっとした。
あっという間に鬼饅頭を平らげて満足そうな表情を浮かべた狭霧に、小鉄は言った。
「狭霧。今から一緒に来ないか。いいもの見せてやるよ」
「いいものって?」
小鉄の言葉をおうむ返しにして狭霧が聞いた。あどけないその表情から、憂いの影はすっかり消えていた。
「いいから。ついてこいよ」
小鉄はそう言うと、木の枝から飛び降りた。地面に鮮やかに着地すると、そのまま走り出した。
「待ってよ、小鉄」
慌てて狭霧も枝から飛び降りると、小鉄の後を追った。
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2016.10.22 15:16