香落渓夜話(二)
15分もかからずに、千乃介の前には野菜と卵の入った雑炊をよそった椀が置かれた。団扇で適度に冷まされたそれを、千乃介はむさぼるように食べた。
「おい、そんなに慌てて食うな。むせるぞ」
あきれた口調の狭霧の注意をよそに、千乃介はすごい勢いで雑炊を全て平らげ、空になった椀と箸を盆の上に返した。間髪入れずに今度は温かい日本茶が差し出された。それも一気に飲み干し、千乃介は満足そうな吐息を漏らした。
「あー、美味かった。生き返ったぜー」
「良かったな」
狭霧はそう言って、千乃介が食べ終えた椀と湯呑を載せた盆を持って立ち上がると、片づけのために台所に立った。シャツの袖を腕まくりして食器を洗っていると、背後に視線を感じた。振り向くと千乃介が隣の部屋からじっと洗い物をする狭霧の様子を見ていた。
「何だ」
「いや、お前、何かさあ、やたら気がきくよなー。・・・さっきからずっと思ってたんだけど」
何が言いたいんだお前は。そんな狭霧の視線に千乃介は弁解するように、
「だって、お前、甲賀のナントカって忍びの家の跡目を継ぐことが決まってんだろ?俺にはよく解んねーけど、大場さんはお前のコト、自分の主って言ってるし。だったら、お前、生まれたときから、上げ膳、据え膳じゃないのかよ?なのに、さっき食った雑炊もやたら手際良く作るし、味も美味いし。全然、らしくねーっていうか・・・」
「・・・後継者らしくなくて悪かったな」
お前は後継者には相応しくない。幼い頃から、自分でもそう思い、人からもそう思われてきた。今更どうっていうことはない。
そう思いながら、狭霧はちくりと古傷が痛む思いがした。
「あー、だから、そーゆーことじゃなくてー!!」
突然の千乃介の叫びに、狭霧は自分の思いを破られて唖然として相手の顔を見た。千乃介は狭霧の注意が向けられていることを意識して、少し上気した面持ちで言葉を継いだ。
「だから、その、僻み根性っての?それ、やめろよ。俺から見たら、全然お前はすごいよ。今回のこともだけど、箱根んときだって・・・竜牙会のネガを現像したときだって、俺にはあんなのさっぱりだよ。だけど、お前は苦も無く帳簿の読み方を見つけちまって・・・ヤーさんたち相手の時も、しっかり矢島たちのフォローしてたし。はっきり言って、俺はお前が羨ましいよ。それなのに、何でそのお前が自分卑下してんだよ?嫌味かよ、ったく・・・」
一気にまくしたてた千乃介は、狭霧が固まったまま何も言えないでいることに気が付いて一旦言葉を切った。
「・・・何だよ、お前、自分で気が付いてなかったのか?自分が結構役に立ってるって・・・」
少し呆れたような、労わるような千乃介の声が狭霧の耳に響いてきた。
誰が?誰が役に立ってるって・・・?
頭の中で、問いが鈍い言葉となって繰り返す。こいつは、千乃介は何を言っているんだろう?
いつの間にか布団から抜け出し眼の前に立っていた千乃介が、しっかりしろよというように、狭霧の顔の前で手を振った。はっとして狭霧は我に返った。
「何だ・・・」
「何だじゃねーよ。お前ちゃんと人の話聞いてんのかよ?鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔しやがって・・・あー、なんかもう気が削げちまった。今のなし。聞かなかったことにしてくれ」
言い捨てると、痛ててといいながら千乃介は台所の隣の部屋に敷いてある布団に戻った。
流しの前に突っ立ったまま、戸惑った表情で自分を見ている狭霧に気が付くと、千乃介はにやりと笑った。
「お前のそんな顔見てると、兄貴や大場さんの気持ちが分る気がするぜ。あと、お前のにーちゃんのな」
そう言うと、千乃介は布団を引っかぶって寝てしまった。
狭霧はしばらく千乃介を見ていたが、やがて寝息が聞こえだしたことに気が付くと、小さく溜息をつき、台所と隣の部屋の間にある引き戸を閉めて片付けを再開した。
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2016.02.22 15:21
2016.02.20 14:04
2016.02.19 15:57