魚は生か調理済みか
「はみだしっ子」の話題です。
Part19「つれて行って」で「はみだしっ子」が完結した後、作者の三原先生本人が本編のパロディとしてお描きになった「オクトパス・ガーデン」
先日「はみだしっ子」を15年ぶりくらいに再読したときにも、この「オクトパス・ガーデン」を同じくらい久しぶりに再読しました。
で、その際改めて気になった、グレが食べられなかった“調理済みの魚”
これは本編では何に該当するのか・・・マックスが真似して捨てると、グレにとって可愛い弟分であるマックスではあるけれども、「可愛さ」が「余ってしまって変質してしまうもの」とは一体何か?
「オクトパス・ガーデン」って、遠くから見るとはっきりと像を結ぶのに、近くに寄ってみるとボケボケになる粒子の粗い画像みたいに、全体で眺めれば確かに「「はみだしっ子」というのはこういうお話だった」んだなあと思えるのに、具体的にどこの部分が本編のどこに該当するか考えれば考えるほど迷宮に入り込んでしまいますw
ところで、この“調理済みの魚”に関して、もう一つ気になることが「オクトパス・ガーデン」には描かれています。お話の最後、雇い主のジャックから「サボタージュは今日限りで終りだな」と言い放たれ、観念したグレが震える手でついに手に取る“魚”
これはグレが食べられなかった“調理済みの魚”なのか?それともグレがずっと手づかみで食べていた、“生の魚”なのか?
描かれた魚の絵と「外は雪。保存状況は良好です」の文言は、“生”の魚のような気もしますが、そうすると結局グレは“調理済みの魚”を食べることを覚えないまま再びジャックのもとで労働を始めるのでしょうか?
そんなことをぐるぐると考えていたとき、ふっと思い浮かんだこと。
例えば、
誰かの犠牲の上に成り立っている幸福
偽りで購う愛情と好意
見せかけの善意
生の魚を手づかみでしか食べたことがなかった=放浪生活のなかで、グレアムたちは、ずっと「見せかけ」や「嘘」や「偽り」を帯びたものに対して、それが誰かとの関係であろうと、寄せられる支援であろうと、全て振り捨てて「真実」のものだけを求めて生きていたのだと思います。雪山の事件で、その「真実」そのものを成立させる前提が崩れ、辛うじて放浪という生活の中でのみ、四人のキャプテンという役割に自分を繋ぎとめておくことのできたグレアムは、ジャックのもとではお役御免となり、もう一度「真実」ー留保つきかもしれませんがーを回復するべく、雪山の事件と真正面から向きあう状況に自らを追い込みます。
雇い主のジャックのもとで、“調理済みの魚”を食べなかったグレは他の三人を置いて、手塩にかけたエスタブリッシュメントペンギン041号の仇のアザラシを探すために故郷に帰りました。でもそれは結局グレの思い違いで、挙げ句グレは追っ手のジャックに捕まって「タコ部屋」へ逆戻り。「明日からの労働」に備えて何かを食べざるを得なくなります。
“調理済みの魚”を食べなかったグレ=Part19で死に向かうグレアムは、アルフィーの死と牧師の事故をきっかけに再び「生きる」という戦いのフィールドに戻ることを余儀なくされます。
その時グレアムが「明日からの労働」=「生きるという戦い」に備えて、手にした魚は生か調理済みか・・・
「オクトパス・ガーデン」には明確に描かれていないその答えはしかし、「引き際を心得ない」「引き下がる事の嫌い」なグレアムというキャラクターそのものの中に見つかるように思います・・・例え、それが「生きる」という戦いにおいて、より困難な選択だとしても。
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